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建築家高部修さんからいただいた年賀状にて、「今の建築シーンについて君は何を思いますか」という問いかけをいただいた。年初にこの原稿を書こうと考えていたので、自分なりにこの問いかけについて思うことを整理してみようと思う。そもそも建築とはなんだろうか。ここから始まらざるを得ない。
「人類は言葉をしゃべりはじめると同時に建物を作った」とフランスの人類学者ルロワ・グーランは言ったという。言葉は音として空気に溶けてなくなる為、化石にはならないのでいつ始まったのかは定かではないらしい。推定では6万年前〜3万年前ではとのことである。一方建物はというと、マンモスの骨を組み立てた住居が世界最古の建物といわれ、およそ4万年前頃といわれる。ほぼ同時期に始まったとされる言葉と建築は、どのような関係をもっていたのであろう。
四万年前の同時期に存在していた二種の人類のうち、現人類の祖クロマニヨン人が生き残り、ネアンデルタール人が滅んだ理由が、言葉を話す能力の有無によることを説明した。言葉を持つことが構築という今ないものやシステムをつくることにつながり、生存に有利だった理由を児童たちに考えさせたかったからだ。児童たちは次々と挙手して発言し、敵対ではなく協働するためのコミュニケーションの重要性について、話してくれた。参加した児童たちと、言葉とコミュニケーションと構築が関わり合っていることを共有することあができた。
子ども達には「言葉と構築」の話までしかできなかったが、そこから建築にどうつながるのかを改めて考えてみたい。人間が人間として生きていくためにはなんらかの形で自分の周りに安定した環境を構築する必要がある。動物として生きるにはあまりに非力なヒトは、人間として集団を形成し生きることを余儀無くされたのだと思う。集まって生きる為に建築は必要不可欠であり、建築があったから集団社会である集落を構築できたともいえる。そう考えると建築は内包する空間により活動の可能性を包含するだけではなく、建築相互の連関により集団社会の構築の可能性も包含してきたのだといえる。
ノベルグ・シュルツは建築的空間の役割は、内側と外側の相互作用にあるという。彼の言葉を借りるならば、建築は建築的空間の内側と外側の相互作用により、人間の活動や社会構築の可能性を担保してきたのだろう。最近の住宅は内外の相互作用どころか、圧力釜のように内部の圧力が高すぎて家族が沸点に達しそうで逆に危険にさらされているのではないかと思う。わたし達設計者は、社会を構築する気構えや覚悟やそのための研鑽が足りないのではなかろうかと反省させられる。さらには、「建築は環境を自己の目的に適応させる役割を持つ」という。ここで気をつけなければいけないのが環境をただ支配するのではないということだ。
発生的認識論を提唱し、子どもの言葉や世界観の研究の第一人者であったジャン・ピアジェは、「適応」を「同化と調節の均衡である」と結論づけている。昨年11月に建築学会賞と建築家大賞をW受賞した小堀哲夫さんのROKIを見学させていただいた。「自然環境下における自己攻略感が人間の感性を開き許容値を広げる」と小堀さんは言われた。ここでいう自然環境下における自己攻略感とは、自然環境を支配下におくことではなく、そこに身を委ねながら同化し調節する均衡のことである。例に挙げられたのが登山における野営であることからも明らかだ。
わたし達は、快適な人工環境ばかりを追い求めていないだろうか。半屋外空間における同化と調節の均衡:アダプティブモデルにおいて、温度の許容値が広がる実験データは既にある。外部環境を問題と捉えているうちは、排除しか考えられない。問題から課題へ転換することで、排除ではなく部分修正しながら良いところは取り入れることが可能になる。それら同化と調節の均衡を図ることで、人間本来の基礎的能力や感性が発揮されるのだと思う。昨年の秋にアレルギーネットワークで活動する医師や看護師、建築士などの専門家の前でこの様な話をする機会があり、意見交換まで含めて3時間の白熱した議論となった。そこで感じたことは、今作られている建物は一方的に人工環境を押しつけ過ぎてはいないだろうか。その様な人間の傲慢さは、今から7年前にも同じ様に危惧を感じていたことであった。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震を境に、わたしはしばらく建物の設計が恐ろしくてできなくなってしまった。自らのあまりの厚顔無恥さを地球に悟られ、さらけ出された様な感覚であった。一年ほど設計できなかった様に思う。その後自分に言い聞かせたのは、この地球は今この瞬間も時速1700kmで回転しながら、時速10万kmでぶっ飛んでいるのだ。わたし達人間の力で建物を建てているなどというのはおこがましいにも程がある。大気圏に包まれ、この地球に抱かれてはじめて建物が建っているのだ。そうでなければ人間も建物も宇宙に放り出されている。それ以来、宇宙や地球・自然の恩恵への感謝と謙虚さを忘れてはならないと肝に命じる様になった。
アメリカ先住民族のナバホ族に「母なる大地は祖先から譲り受けたものではなく、子孫から借り受けたものである」という諺がある。このような謙虚な姿勢は西洋文明や現在の日本ではなかなか見ることができないが、ネイチャーテクノロジーやバイオミミクリーという最先端の科学技術は、このように地球や自然に学ぶ謙虚な姿勢にシフトしようとしている。俄かバブルに踊る建築関係者こそがこの姿勢に学ぶべきであり、そのまま自らにも突きつけられている。
今までに述べてきた事象にも、作り手にも、住まい手にも、使い手にも共通することがある。それは、住まう(使う)ことと、建てる(つくる)ことの乖離である。ハイデガーは「住まうことは建てることである」という。哲学的なこの言葉をわたしにはきちんと説明できないのだが、住まうことと建てることは同義であり不可分なのだと言っている。ここで「建築は環境を自己の目的に適応させる役割を持つ」という言葉に戻るのだが、住まい手や使い手が建築に関わらずして環境を自己の目的に適応させることなどできないのではなかろうか。そう思うと、住まうことと建てることは分けては成り立たないのだと思う。
東後畑の棚田の風景を美しいと思う。自然造形と人間の営みが見事に同化し調節の均衡が保たれていると感じるからだ。わたし達の生命記憶には人類誕生から今日までの生命進化の過程が遺伝子に刻まれている。生命記憶に共鳴する、自然環境との同化と調節の均衡こそが、人間の基礎能力と活動の可
欠陥住宅が社会問題になり始めてから仲間と進めている一般社団法人建築よろず相談支援機構が今年20周年を迎え、人建築事務所は25周年を迎える。節目を迎えたこの年にこのような原稿依頼をいただいたことに心から感謝する。建築が社会の構築にも関わっている自覚のもとにさらなる研鑽を積み重ねていきたい。